日々のこと

世界が変わる越境線に立っている

COVID-19による混乱の中、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

ちょっとブログ更新が途絶えがちなのは、リニューアルを画策しているからです。
5年前に見様見真似でWordPressによるサイト立ち上げをして、基本的なことすら全く知らないままに運用してきてしまいました。それでも検索上位に上がれるサイトになってはいますが、ランクを維持したまま、手順も極力少なく、でもサイトの構成はもっとスッキリさせて自力でリニューアルするには…と悩みながら情報を収集しています。信頼できる業者さんをご存知でしたら教えてくださいm(_ _)m

 

セッションを継続して受けてくださっている方とは個別にやりとりをしておりますが、病に対する姿勢と感覚は本当に人それぞれですね。3月から非常に慎重だった方は自主的に10シリーズを中断され、医療従事者の方は淡々と10シリーズを継続していらっしゃいます。

今回のCOVID-19をめぐる人々の反応や社会のあり方、飛び交う情報、言説を見ていると、なんとも言い難い気持ちになります。
不安な時は明快でわかりやすい指針が欲しいものです。誰かに「これが正しい!」「こうしておけば間違いがない」と言ってもらいたいものです。が、今は表面上の明解さ、感情で引き寄せられたり「正しい」と感じるものに、すぐ飛びついてはならない時期だと感じます。
正しく見える意見や自治体や政府の指針についても、いったん立ち止まって「それって本当?」「それで本当に人類の幸福のためになるの?」と問いかけねば、ウィルスとの戦いが終わった後に、世界がとんでもなくグロテスクなものになっている可能性がある。そんな危機感を持っています。

誰かが得をするのは許せないという風潮

強いストレス下に置かれると相互監視社会化が進むのを、身を以て味わっています。他府県ナンバーの車に目を光らせるなんて、まるで戦時中の隣組じゃないのそれ…と感じました。

例えば給付金や補償金についても、すぐに「不正受給を防ぐ」とか言い出して手続きを煩雑にしてしまう。

そもそも補償金や一時貸付金などを必要とする人たちは困窮しているし、公的サポートへ繋がる機会と手段を絶たれたまま逼迫していて、待った無しの状況にあることがほとんどです。だから補償やサポートは、簡便な手続きで迅速に受け取れなくてはなりません。

窓口となる役所も、窓口に立って書類を受け取り申請手続きを進めるのは「人」です。初めての業務、煩雑な書類、ややこしい条件に疲弊していると聞きます。

不正受給がないようにと、一見正しい規範を持ち込んで基準や手続きをややこしくしてしまうのは、誰のためにもなりません。誰かが得をするのが許せないだけなんじゃない?と思います。

自分が正義を振りかざしたくなったときには、「それは一体どんな感情に基づいている?その物差しで何をただしたい?それが誰の・何のためになる?」と自問する。この3月以降、わたしはこのように意識するようになりました。
恥ずかしながら、わたしもやはりわかりやすい正しさを追求してしまうのです。で、自分が正しいと思うと気分がいいものなんです。その気分の良さこそ、危険です。

 

弱者を見つけて叩く

「スーパーにお母さんたちが子連れで買い物に来てるのよ…困るわ」と眉を潜めて母が言うのです。(60歳以上はスーパーへの買い出しも行かぬようにと言うのが欧米での基準なんですけど、うちはわたしが買い物を申し出ても却下され続けております。)

買い物しか外出の「正当な」口実がないのが実情だし、動きまわりたい盛りの子どもを家に閉じ込めっぱなしにするのも不健康です。買い物ぐらい一緒に行ったってええやんけと思うのですけれども、感染を懸念する気持ちもわかります。店内を走り回ったり買わない商品にまでベタベタ触りまくったりする子もいるし、単純に店内の人口密度が上がる不安があります。

ですが、幼稚園や保育所が閉まっている/預けられない、子供だけで留守番をさせられない(危ないから)、パートナーに子どもを任せられない(仕事や資質、そもそも不在などがあるわけです)事態を、「あんたの家の問題でしょ」と、個人に背負わせて一蹴するのでいいのでしょうか…?
こう言うときに顕在化する、子育てする人たちに向けられる視線の冷ややかさに慄然とします。

有り体にいうと弱者を見つけて叩きたいのでしょう。

「あの人たちに比べたらわたしはちゃんとやっている」。そのように思いたいのだろうし、まともにルールを守って疲弊していることの腹いせなのかもしれません。

不幸な気分の時や疲れている時は、やさしくなれるだけの余裕がなくなります。病気でしんどい時と同じです。とげとげした気分になって誰かを諌めたいときは、自分に気分転換や休息をもっとさせようというサインだろうと思います。

 

「社会の敵」を作る

自粛要請(この言葉の欺瞞が大嫌いです。自粛というのは自ら決めてやめておくこと。他人から「要請」されてするものではありません)に応じずに営業している店舗への攻撃が、すでに始まっています。

とりわけわかりやすいのがパチンコ店です。
パチンコなどまさに不要不急だし、営業中の店舗を求めてわざわざ他所の地域からやってきてもらっては困る!感染を広げるな!と、これが正論ですが、ではなぜ飲食店は叩かれないんでしょう?マスクを外して飲食する方が、パチンコ台に向かって黙々とパチンコに興じるよりも、感染リスクは高いのに。

4/24に吉祥寺アトレに用事があって出掛けたとき、駅ビル内の某ベーカリーがいまだにイートインを開放していました。狭い店内にびっしりと人が座っているのを見たとき、仰天しました。隣の人と肩が触れそうな距離で、飲食して、文庫本なんか広げてのんびりしちゃって、もし自分が感染していたらとは思わないのかな?と首を傾げました。

だけどそういうことは叩かれずパチンコ屋が叩かれるのは、パチンコ屋と、パチンコ依存症の人が、元から社会の嫌われ者だからです。スケープゴートにしやすいというわけです。

ナチスもLGBTやユダヤ人、障害者という「元からの社会の嫌われ者」を迫害対象に選び、徹底的に迫害しました。今のわたしたちも、ナチスと同じ道を辿っているのではないか。社会の敵を作り、「あいつら」と「わたしら」とを自発的に分断させるやり方です。

これまでなんとなく見ぬふりをしてきた分断が、ますますくっきりしてきてしまっただけなのかもしれません。が、わたしはこの分断をこのまま押し進めたくはありません。だから「社会の敵」を糾弾する言説には同調しないことにしました。

 

 

個人のプライバシーを差し出す

ウィルスの感染経路を明確にすることが、疫病のコントロールには役立ちます。でもそれも程度問題じゃない?と思うのです。

いつどこで誰にあって何をしたのか。究極の個人情報が、ウィルスの拡散を最小限に食い止めるという正義の下に、堂々と暴かれ、提供せよと詰められている。後ろめたいことがないのなら情報を提供しろ。しないのは社会の敵だと責められる。

わたしたちは「こんな時だし、当然だ」と思い込み、個人情報をあっさりと明け渡してしまうけれど、それは本来は異常なことです。ここで収集された情報は医療機関内に留めますとか、自治体内の最高機密として扱いますとか、そういう確約すらないままなんですから。

補償金や一時貸付金などの申請にはマイナンバーカードが必要ですよとなり、これもまた国家による監視の包囲網をじわり縮めてきやがったなと感じます。感染拡大防止という大義名分のもとに、個人の権利がじわじわと侵食されている。恐ろしいことです。

疫病が発生したら家ごと焼かれることもあったわけですが、現代では家ごと焼かれる代わりに、プライバシーをごっそり引っこ抜かれて公権力の管理下に置かれてしまう。

いったいこれは人類の幸福に資することなのか?

病をコントロールするのは人類の悲願でしたが、人の致死率は100%です。遅かれ早かれ人は死ぬ。有名人が死ねば大袈裟に嘆き悲しむくせに、一般人が死んでも数字で流されておしまい。

どこでバランスをとるのが幸せなのか。わたしにはわかりません。

これほどまでに個人的なこととはすなわち政治問題だと実感した日々もありません。この騒動がおさまった時に、いったい世界はどんな様相を呈しているのだろう。わたしにわかっているのは、今がまさに境界線なのだということだけ。自分には科学者の頭も政治家の力も哲学者の思想もないことを、これほど悔しく思ったこともありません。

どうぞ皆様もご自愛ください。