わたしのこと

ミニマリズムは善なのか

転居をきっかけにどれだけ要らないものを捨てたかを自嘲気味に語る投稿をみていて、思ったことを書きます。

結論から書くと、捨ててはいけない物がある、ということです。闇雲に捨てまくるのは断捨離とは言えず、ただの雑な大掃除です。その時に勢い余って大事なものまで捨ててしまって後悔しても後の祭。どれほど悔やんでもどうにもなりません。

特に自分のアイデンティティや大事な思い出に関わるものは安易に捨てたらダメです。本当に大切なものは、捨てたら立ち直れません。
「もう使わない」「あったところで場所を塞ぐばかり」「いつも眺めているわけじゃないし」等々、片付けモードになっているときは、片付けられない自分に苛立って切り捨てたくなりますが、その物にまつわる感情や思い出、自分の過去を大切にしたいかどうかを冷静に考えて欲しいのです。

わたしは離婚にともなって、3日程度で引越しの準備をせねばなりませんでした。3LDKのマンションから引越し先は6畳間とキッチン、お風呂場、トイレだけの簡素な1K。荷物をたくさん捨てざるを得ず、捨てたり手放したりして気がついたのは、物への執着には理由があるってこと、そしてそれを無理矢理捨てると立ち直れないぐらい魂が傷つくってことでした。

10数年にわたる結婚生活の中で、わたしの綺麗なものや素敵なものに対する執着心や感覚はだんだん歪んできていて、いつも大量の在庫布と器に囲まれていました。欲しいものは何としても手に入れないと気が済まないのです。幸せになるためにはそれを買わなくてはならないように思っていたんだろうと思います。いつしか買うことが目的となり、たくさんのコレクションを握りしめていました。
その虚しさに気がついてもいたので、離婚と転居をきっかけに、それはもうあらゆるものを捨てまくったのです。「身軽になりたい」「合理的に暮らすべき」という強迫観念に取り憑かれていたと言ってもいいでしょう。だって、いちばん大切だったはずの伴侶すら手放すと決めたのです。いわんや物などに執着していたのでは、わたしは次のステージへゆけない。そう思い込んでいました。

食器や布などのたくさんのコレクションを手放し、捨てられずに取っておいた様々なものも捨てたり人様に譲ったりしました。そして、その後、絶望感と喪失感にずっと苛まれることになります。まるでこれまでの人生がすっからかんになってしまったかのような、それはひどい喪失感でした。

モノは所詮はモノです。だけど、モノには「その時の自分を含めた、自分の世界すべて」や誰かとの大切な記憶そのものが詰まっていることがあります。それを捨てると、自らの人生の歴史そのものを失ったような喪失感に襲われるようなモノが、確かに存在します。

この感情を過去への執着だとして、現在の自分とは切り離して見られるようになるタイミングは、ちゃんと見計らったほうがいいのです。気が済むまで持っていることを自分に許してあげるのも、とても大切なことです。

断捨離やこんまり流の片付け術が流行り、モノを持たないミニマリストを標榜する人が周囲に何人かいるのも、今や特に不思議ではありません。ミニマリストの部屋は生活臭すらなく、自分のごちゃごちゃとした乱雑なデスクや押入れに「ああ・・・なんとかしなくては!」と後ろめたさを感じている時には、カッコよく見え、シンプルで素敵だなとすら見えてきます。

しかし、
・物を持たない=執着がない、身軽、整理整頓ができている人。
・物を持っている=片付けができないダメな人。
みたいに思っているとしたら、それは短絡的です。
物を持たない人も、選び抜いた最低限の物は所有している訳で、必要と判断した物の数が極端に少ないというだけのことです。生き方そのものが無駄を削ぎ落としまくったライフスタイルになっているはずです。そして、そんな生き方は、誰にでも向いているわけではありません。

物を持っていたとしても、オーガナイズされていればそれでいいではありませんか。わたしは大量の物を捨てたとはいえ、いまだに貸し倉庫を借りて、決して手放せない蔵書類はそこに預けてあります。なぜなら、あの書籍や書簡やアルバムは、わたしが生きてきた大切な証だからです。