日々のこと

大都会の憂鬱

関西で10年以上暮らしてからアメリカ滞在を経て東京に帰ってきて、大都会のキチキチした感じに未だに違和感を覚え続けています。
公共交通機関やデパート、スーパーマーケット等で特に窮屈な感じ、余裕のない感じを強く感じます。

 

3分や5分程度の遅延で「申し訳ありません」と平謝りの車内アナウンスや、小売業の現場で頻発されてる「〜させていただきます」という言い回しや、杖をつきながら歩く人のすれすれを猛然とすりぬけてゆく人たち。少しでも何か気に入らないことがあると小さなスーパーのレジ係に怒り狂う老人とか、満員電車内で人にもたれかかりながらスマホゲームに興じつづける人とか。

先日、暗澹たる気持になったのは、地下鉄から生後半年程度の赤ちゃんを抱いて降りてくる若いお母さんが、ホームで立っている私たち(ラッシュ時ではなく、その扉の前に立っていたのは私と年配の女性だけ)になんども深いお辞儀をしながら降りて来たことです。

若い母親にそんな卑屈さを強いる社会なんて…と涙が出そうでした。

 

一つのミスも許されないというピリピリした感じと、どんな場でも我を通そうとする公共心の欠如とがなぜ両立しているんだろう?と不思議です。

時間通りに過密ダイヤの電車が運行されること、いつでも快適な通信・移動・飲食環境が整っていること、どんな場面でも常に自分の”快”が優先され、自分はサービスを提供する側より優位に立っているとみなすこと。それを「普通」とする傲慢と冷酷が怖いんですよね。

サービスを提供する人たちがもし自分の親しい友人や家族だったらどうなんでしょう。同じように「お客様は神様なんだろ?」という態度で暴言を吐いたり文句をツイートしたり暴力を振るったりできるんでしょうか。

 

自分が享受している便利な生活は、たくさんの多くの人たちの仕事で支えられている。その人たちは自分と同じように生身の人間で、家族もいれば感情もある。

社会の歯車とか言って馬鹿にしますが、歯車が歯車として健全に機能していればこそ、今の便利なインフラが整っているわけです。

同じ車両に乗り合わせた妊婦さんは、これから一人の人間を生み育てるという大仕事をするスゴい人だし、ギャーギャー泣く赤子はそもそも泣くのが仕事だし、将来の日本を支えるひとりになる… ちょっと想像すればすぐにわかることなのに、そんな想像したら死んじゃう!とでもいうかのように、スマホやタブレットを凝視して周囲の世界をシャットアウトするのはどうしてなのでしょう。

 

愛の反対は憎しみではなく無関心。

最悪なのは、善人の沈黙。

 

無関心と沈黙が支配する世界に暮らしたい?そんなはずありませんよね。

 

自分が弱者に絶対にならないなんていう保証はどこにもありませんし、そうなったときにしんどい世界に生きるのは私はいやなので、これからも反射的に席を譲るし、必要なら救急車も呼ぶし、ドアは押さえておくし、困っていそうな人には自分から話しかけてゆきます。
これも慣れです。
ちょこっとした手助けをしたい気持は表してナンボですから。