認定ロルファー™の利香です。
ロルフィング®のトレーニングを受けていた時にも、その後も、
「感情に優劣をつけない」ことの重要性をたびたび感じます。
自分自身の課題としても、です。
体に触る者として、感情が姿勢や体にもたらす影響は計り知れないと実感していて
そこに更にジャッジ(いい・わるいを断じること)することで
別な感情をも引っ張り込んでしまうややこしさも感じています。
たとえば、怖いと感じて体がこわばる=そんなの男らしくない=恥ずかしい、腹がたつ→腹部に恥と怒りをためている・・・とかです。
私たちは感情の生き物です。
嬉しい、悲しい、楽しい、不安、緊張、怒り、喜び、感謝、愛着等々
さまざまな感情を持っていますが
教育を受け成長してゆく過程で
「ネガティブな感情」と「ポジティブな感情」のように
感情を分類して、かつ、価値判断までつけてしまっています。
<ネガティブ>に分類された感情は、表に出してはいけないもの、
感じることすらいけないもののように思い込んでいる節があります。
作家の内田百閒(うちだひゃっけん)が
芸術院会員の推薦を受ける話が持ち上がった時に
「イヤダカラ イヤダ」と断ったという逸話があります。
説得役を買って出た川端康成が百閒の自宅を見つけられず
結局断念したというのもまたおもしろい話なのですが、それはさておき。
この逸話が広く人の印象に残っているのは、おそらく、百閒のことばが
身も蓋もない素直な気持ちをすっきりと表現しているからかもしれません。
「嫌なものは嫌だ。嫌だと感じる気持ちにそれ以上も以下もない」という実にシンプルな事実を、誰に上下をつけることもなくけろりと出しているところがいいのです。
「私のようなつまらぬ者には、芸術院会員とは過ぎた光栄ですので、謹んで辞退いたします」というような、心にもない謙遜表現を使わないのも素晴らしい。
嫌だと感じる自分を卑下することもなく
芸術院会員=名誉という価値観に捉われず
これはあくまでも私の個人的な感覚ですという姿勢で
他の誰のことも貶めず、自分の意思を貫いた訳です。
なんと軽やかな心でしょう。
百閒を偏屈というカテゴリに入れて解ったような気になるなよ!と思ったりもして。
この軽みが私にはちょっと足りないな〜と思ってます。
「いやだ」なんていったらダメ!
人のことを嫌っちゃダメ!
そういう教育を受けているせいでしょうか
「いやだ」「きらい」という感情を<ネガティブ>に分類せずに
ふーんそうなんだね。そういう風に感じるんだね。と、
平静な気持ちで見つめられない事もあります。
そういう時はたいてい考えすぎているので、
「あ。またやってるな」と気がついたら、今度からはさっさと他の事をするようにします。
・・・なんだか日記みたいですけど、今日はこんな事を考える日でした。
三連休、好きな人とやりたいことだけやって過ごせるわけでもない方々に
「いやだ、嫌いだって感じてもいい」と思ってもらえたら幸いです。
いやだからいやだ、は、立派な理由です。