日々のこと

対価を考える

昨日はべぇさんこと森部高史さんのセッションルーム:Kukuna Body で毎月25日に開催されている、「Kukunaの日」でした。今回はお金のブロックと言われているものを考えるという内容。普段、腹を割って話す機会のないお金に対する価値観や、もやもやしていることなどを参加者全員が率直に話す場となり、得難い体験をしました!

日本は資本主義社会のはずなんですが、ものの対価についての一般的な価値観がどうもゆがんでいるような気がしていました。「あの人は働き者だ」というのはほぼ100%褒め言葉として使われるのに、機転や知識・専門的な技能を使って働きお金を得ること(各種投資から専門知識を他人に教えることまでを含めて)を「虚職」「あぶく銭」と言って蔑む傾向があります。堅実に働くことを過剰評価する反動なのでしょうか。
また、お金を増やすことのみならず、労働の対価として正当な報酬を受け取ることさえ、おおっぴらに語るのはタブー視する風潮があります。お金:特に現金に対する「汚い」という感覚も根深く、日本ではどんな小額でも現金は包んで渡すのがマナーとなっています。現金を剥き出しでやりとりすることへの嫌悪感は、お金そのものをタブー視する感覚を更に強めます。

Photo by Jeremy Paige

例えばこんな画像をみたときの自分の反応を探ってみると、自分の価値観がみえてきます。

考えてみれば、資本主義社会なのに、お金を稼ぐこと、それを使って経済を回してゆくことを学ぶ機会が、義務教育の場にないのも変な話です。お金を稼ぐことについて率直に話すのは「みっともない」ことだというのなら、そのみっともない行為の根元にある労働もみっともないこととなります。だけど労働そのものは褒める。ますます変です。

私自身、自分のスキル、職能、学歴、知識等に金額という形での価値を与え、世間に向かって提示することに強い抵抗を抱いていました。それは図々しいことであるという感覚ももちろんありました。それ以上に、自分の技能にどれほどの額を払うかは雇用主や他人(からの評価)が決めるものだと考えていたり、同業者の一般的な価格設定に合わせるべきだと考えていたりして、主体的に決める姿勢が欠落していたんですね。なぜならお金のことを考えるのはタブーだから。

しかし、そのままでは、自分が何に価値を置いている人間なのか、価値あるものとして何を提供している人間なのかを対外的に示すことができないわけです。金額は数字です。対価を決めることは、数字として自分のスキルや提供できるサービスを社会に向けて明示することです。

その時、何を考えるべきなのかについても、昨日は新たな学びがありました。

それは、対価を決める時にはそのサービスを長期間にわたって安定して提供し続けられるようにだけでなく、それで得たお金を社会にどう還元してゆきたいのかも併せて考えるのが大事であるということでした。この仕事をすることで私は誰を助けたいのか。どんな社会・コミュニティにしてゆきたいのか。そのビジョンがあるとないとでは違うよということでした。
そうすることで、社会に私も参加しているという満足感、自己肯定感も仕事から得られるようになります。これが私たちに新たなモチベーションをもたらしてくれて、いい循環を生むようになるのですね。

こういう貴重な学びを得られる場を設けてくださるべぇさん、率直な意見を話してくださった他の参加者の皆さんに、心から感謝しております(^人^)
今日からまた初心にかえって、自分のビジネスを考えてみよう思います。

 

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