認定ロルファー™の利香です。
かなりの高確率で「オタク」であると言われます。
分野はいろいろです。
興味を惹かれたものは
本質を理解して分類・整理して
自分の頭の中にある図書館に
体系的に収蔵したくなるのです。
たとえばミシンが欲しいときは
ミシンの種類、特色、素材、構造、
どうやって動いているのか、
ミシンメーカーの歴史、特徴等まで調べます。
わたしが最初に就いた仕事が
司書だったのも当然のなりゆきです。
でもオタクじゃないんだよなぁ〜と
内心では思っています。
そこまでの「モノへの愛」がないからです。
この世界を構成している
あらゆるモノの本質を知りたいという、
博物学的な欲望はあっても
コレクターのような所有欲や
オタクのような偏愛はありません。
わたしがいろいろなモノ・ことについて
オタクレベルで詳しいことや
いきなり本質にたどり着くことを
「すごい」と仰る方もいらっしゃいます。
が、本人は好きでしていることなので
すごいとは思っていません。
むしろ世界を構成するあらゆるものへ
無関心でいられることが不思議でならない。
これがいわゆる「強み」というものですね。
この「すごい」と「強み」について
最近感じることを
書いておこうと思います。
自己肯定感や自己評価が低いと
他人から「すごい」と言われる事柄や
当たり前にできること=強みについて、
最初はそれを認めることすらできません。
要らない謙遜や自虐がでてきて
「いや〜器用貧乏なんですよ」
「そんなことないですぅ」と否定しまくります。
ある程度、自己肯定感が育ち
自己評価も上がってくると、
「すごい」と言われることや強みを
受け容れて嬉しくなってきます。
承認欲求が満たされるからです。
ここから先にゆけるかどうかが大事。
自己肯定感・自己評価の底には
承認欲求があって当然ですが
承認欲求とは「誰かに認めてもらうこと」で
基本的に他者を必要としています。
「すごい」という言葉についてもそうです。
平凡に比べ非凡だからすごいという
比較に基づいている。
「強み」も同様です。
秀でている、群を抜いている、
レベルが高い、精度が高い。
比較の対象があっての概念です。
比較や他者からの評価に依存したまま
自分の「強み」や「すごい」と言われることを
喜んだり珍重したりしている段階から
わたしはわたしであるという
そのことに
優劣も善悪もないという
二元論の向こう岸にたどり着くのが
いちばん心が穏やかで、
他人も自分もジャッジせず
静かな湖の水面のような
平明な心を保っていられる状態なのではないかな、と
薄々気がついてきました。
そういう心の状態で
人生で成し遂げたいこと、やりたいことに
向き合えるようになったらいいな、と
そんなことを考えるのでした。
あ、大丈夫です。
新興宗教とか入っていませんし
石とか買ってません!
見栄も不公平感も不満も、
比較や欠乏感から生じていて
そういうものを腹の底に抱えたまま、
表面だけ「わたしってすごい!」と
呪文のように唱えていてもな〜ということを
感じるので、自分の考えをまとめてみました。