背景が描けるようになりたいと思ってモニターに申し込んだら、「描けない」のではなくて「描かない」んだと判った話
北畑行博さんの「アーティストのための才能・能力拡張セッション」を受けました。北畑さんとは同じ経営塾に通っていたご縁で繋がったのですが、元々は鍼灸師で、今はTFTをベースにした独自のセラピー:CT2(セラピーというよりも問題解決法)を主に提供して活躍していらっしゃいます。こういうものに否定的な気持ちを持たれる方は、この先は「へ〜そんなこともあるんだ」程度にお読みください。
セッションの前と後とで同じモチーフで絵を描いて、セッションの影響を視覚化するという試みも楽しみでした。まず、zoomの画面越しで猫を高校時代からの愛用のシャーペンでせっせと描くわたし。(物持ち良すぎ)
その様子を見るともなくみている北畑さん。
「普段、いろんな感覚が過敏で気づいちゃう状態なのに、絵を描いているとギュッと集中して周囲の情報を全部シャットアウトしている。それは瞑想状態で気分がいいに決まっていますよね!」と言われる。
そうか。そういうことだったか〜なんて軽い気づきがありながら、CT2を用いたセッションがスタート。
不要な思い込み3つが、中高時代に受けた体験から形作られていることがわかり、それらをCT2で解除してゆきました。思い込みを解除してゆくにつれて、体がどんどん熱くなり、生あくびまで出てクーラーが効いているのにやたら暑い。
ふたつめの思い込みを解除した後、「絵を描いてみようと考えて」とユキさんから指示された時に、わたしは全く絵を描く気にならず、ボヤ〜〜〜っとしていました。あら。このまま描けなくなるのかしら。
3つ目の思い込みを解除する時にはちょっと手こずりまして、もう1段階を経なければならなかったのですが、それも無事に解除。解除された途端に、「わたしが負けるわけがない」という確信がぐわっと湧いてきました。
比較と競争の罠に陥っていたわたし。「こうでなくちゃいけない」にとらわれていたわたし。サヨウナラ。言葉にするとそんな感じです。
「寄り添わない系」を標榜するだけあって、北畑さんのセッションは淡々飄々と進みます。わたしも泣いたり感情的になることはありませんでしたが、北畑さん曰く、「ふたつめの思い込みを解除しようとしている時から、こみあげるものがあるって言うか、身体は泣きたがっていましたね」だそうです。全く自覚がなく、「アチいな」とか思っていたわたしって…。
さて、中高時代にわたしに何があったのかというと…美大受験を経験した/しかけたことがある人ならわかると思うのですが、受験となると、比較と競争の罠に陥るんですよね。否応無しに。
わたしの挫折は中学生の頃、「なんでもソツなく上手に描ける人なんて山のようにいる」という事実に直面した時でした。当時、油絵をやっていたので、「絵」といえば背景も主題も同レベルの表現力でこってりと描きこまれていなくては「完成」ではないと思っておりました。
なんでもソツなく描ける人たちに比べ、わたしはといえば動物しか描けないし、描く気がない。描く気がないものを目の前にすると途端にデッサン力はガタ落ちになるし、絵を完成させられない。やばい。受験できない。絵描きになれない。絵描きになるには「なんでも・上手に」描けなくちゃいけないんだから。
「この子には描きたいものがある。それは得ようと思っても得られない欲求なので、描きたいものを描きたいように描かせるのがいちばんいい」と、絵画教室の先生に放牧されてのびのび育っていた子も、かくして、大きな挫折を味わいます。劣等感と焦りが強くなり、思春期の不安定な自我がグラグラに揺さぶられました。
生まれつき絵を描くのが好きなわたしは(「好き」というのも違うんですよね。気づけば描いているので「とりつかれている」といった感じでした)、絵を描くことがアイデンティティとがっちり結びついていたので、絵が描けない自分なんてアイデンティティの崩壊に他なりません。
背景が描けるようになりたいというのも、背景が描けた方がいいという前提あればこその発想です。13,4歳の頃からもう何十年も経っているというのに、いまだにその呪縛から逃れられていなかった。背景が描きこまれている方が世界観が出せるとか、自分の空想や感性、感情を表現できるとか、ゲージツ的によろしいと思っていたんですよね。
なんでも描けることは確かにイラストレーターとしての仕事には活かせる強みですが、突出した個性とクセを前面に出したっていいじゃない。芸術の世界では平均点などあまり意味がないのも事実なのに、自分に当てはめて考えられなかったわけです。
セッションを受けてはっきりわかったのは、わたしには背景は邪魔だということです。
わたしが描きたい絵にストーリーは不要だし、空想の世界を描くとか感情を表現するとかなに言ってるんだアホちゃうかぐらいに内心で思っていたけど、上に書いたような思い込みからそれを認められなかった。
わたしが思うに、絵に描くというのは、存在の純粋さを増すための行為です。純化のための行為です。
例えば猫を描くとは、雑多な情報の洪水の中に埋もれている猫を現実からひょいとピックアップして、猫の存在のみ抽出する作業。混じり気のないものとして「ほら。猫はこんなにも美しい」と見せたい。
純度を増すためには他の要素は要らない。描きたい対象物以外は不純物になってしまうんです。わたしからしたら。
北畑さんのセッションを受けて、対象を際立たせるためにわたしが何かを描くとしたら、色や光の表現だけで十分だと思うに至りました。
「文学では表せない美しさが幾何学模様にあるように、これはこれでしか表せないんです。文学的な絵画が好きな人もいれば、そうじゃない人もいるでしょう?」と北畑さんから言われて、深く頷きました。
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セッションビフォー・アフターの比較のために描いた絵の解説をしておきます。伝わりにくいと思いますので…。
セッション前に描いた猫の絵:
A4コピー用紙に愛用のシャーペン(芯はB)で描いたもの。
・ちんまり。特に指示はなかったのに、こんなサイズに描いてました。
・デッサン狂ってます。
・こちらをみているけれど緊張度は低く、背中のカーブがなだらかで、ちょっとのんびりした気配。
セッション後に描いた猫の絵:
A4コピー用紙にB2の鉛筆で描いたもの。
・まずB2の鉛筆でいきなりグイグイ描くこと自体、この30年で初めて。
・とにかくサイズがでかい。わたしが普段「描いてみて」と言われて描くサイズではない。
・猫の背中のカーブがぎゅっとなってて、それ以上近寄ったらパッと動き出す準備をしている。緊張度がやや高まっている状態。表情と姿勢が一致。
セッション後に描いた馬の絵:
A4コピー用紙にB2の鉛筆で描いたもの。
・セッション中に「わたしが負けるわけがない」と思ってからすぐに自発的に描き出した。
・ほぼ1年ぶりに馬を描く。モチーフとしてレア。
・心を病みかけていた時に、よく、パステルでグイグイと真っ黒と真っ赤で馬を描いていたことを思い出す。今は穏やか。むしろ力を誇示したいぐらいの気分。
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背景の意義については、人それぞれの価値観や絵画観があると思います。
わたしは内側から沸き起こる強い感情として「背景?邪魔。」と今は思っていて意図的に排除しているわけですが、それが至上であるとは考えていません。
これがこの先どうなってゆくのかも含めて楽しみです。
北畑行博さんの「アーティストのための才能・能力拡張セッション」、詳しく知りたい方はこちらをクリックして、北畑さんのブログをよくお読みください。