認定ロルファー™の利香です。
LGBTには「生産性がない」から税金を使ってやる必要はないという国会議員の発言が、物議を醸している。
ユダヤ人や同性愛者から財産、人権、家族を徹底的に奪って殺したホロコーストの事例をみても、人の特性や「生産性」でその人の権利を云々する発想がおぞましい発想だというのは明らかだ。こういう過去のひどい過ちから現代のわたしたちが導き出したのは、「人には生まれながらにして人権がある」とする人権天賦説である。
人権とは、天皇や大統領が付与するものではない。誰にでも等しく与えられている。かの国会議員には、中学校から教育をやり直してみてはどうかと薦めたい。
しかし、実際のところ、人を「役に立つ/立たない」で評価する価値観は、現代資本主義社会を生きるわたしたちに強く刷り込まれている。会社での能力給、貢献度で査定される評価システムはもちろん、さかのぼれば、成長段階でも「◯◯ちゃんは気が利いてえらいね」「お手伝いできてすごい」という褒め言葉を浴びて育っている。そういう他人からの評価を内面化しているわたしたちは、常に爆弾を身内に抱えている。
たとえば「犬のクソより役に立たない」という罵倒に、うまいこというなぁと思わず感心したり、笑ったりしてしまうメンタリティだ。これがモノに対してではなく人に対して使われるときでもそう感じてしまうところが問題なわけで、役に立つ/立たないで他人をみているつもりが、自分をもみていることに、いい加減気がついた方がいい。他人の価値を能力・有用性・生産性だけで決める視線は、「役に立たないわたしは価値がない」という恐ろしい自己否定となり得る、きわめて危険なブーメランなのだ。
「生産性がない」LGBTや不妊カップル、無職の老人、ニート、身体的あるいは知的能力が低い人間は、果たして生きる価値がないのか?
この問いに対して「LGBTでも生産性がある人はいます」「障害者でもすごい学者がいます」「老人でも立派な社会的地位について働いている人だっています」という反論で応じてはならない。
生産性で人の存在価値を云々する価値観から自由にならねば。他人から評価され、求められることだけを拠り所とする生き方から脱け出さねば。あなたもわたしも生まれながらにして十分なのだ。生産性や能力で基本的な人権の質や量を左右されていいわけがない。
「そっち側」に堕してはいけないんだと自らを戒める強烈な機会として、あの国会議員の暴言があったのだと思うことにしている。