ツイッターで見かけて気になった郡司芽久さんの『キリン解剖記』、ツイートを読んですぐにAmazonで入手し、あっという間に読んでしまいました。久々の、読み終えるのが惜しく感じられる本でした。愛読書:『遺体科学の挑戦』(東京大学出版会、2006)の著者、遠藤秀紀先生のお弟子さんであるというだけで即買い。間違いなかった!
論文を書いて認められれば文学博士というステータスに一応あるわたしが(理屈の上ではです。実際にそれが可能かどうかはまた別の話)、この本をお勧めしたい理由はひとつ。
この本には、「研究する」とはどういうことかのエッセンスが詰まっているから。
これから研究職を目指す人、文系理系問わず大学院生はもちろん、研究とはどんなことなのかを理解したい人(お子さんが研究者肌だなと感じている若い親御さんを含む)には、是が非でも読んでもらいたい。とりわけ研究者の卵の方々には心を強く持っていただきたい。
そんなわけで、本著に関するわたくしのお勧めポイントを挙げてみます。
自信を無くすのは日常茶飯事
東大生といえど郡司さんも人生20数年の若者です。論文を読んでも理解できない、解剖しても何をみているのかわからない、先生のアドバイスの真意がどこかにあるらしいのだけれどそれがわからない、チャンスをモノにできない…と言った自信を喪失するような出来事に遭遇しながら、ひたすらキリンの解剖をしてこられたのがわかります。
理解できないことにぶち当たると、「理解できない」という事実に凹みます。だけど、「理解できないことがある」点にこそ研究の意義があります。研究者としての成長、そして、その分野の研究に資するという、ふたつの意義です。
「賢明な読者のみなさんなら既にお気づきだろうが、これこそが、大学3年の時に遠藤先生に渡され、全く理解することができなかった論文だった。(中略)
時間が経ってからその面白さに気がつく、というのはよくある話である。論文が面白く思えないのは、多くの場合、読み手側の知識不足、視野の狭さが原因だ。」
(本文より引用)
常識や既知のことに宝が埋もれている
とても心強いなと感じたのが、郡司さんが待望のキリンを解剖している時、解剖書どおりの筋肉が見つけられず、苦し紛れにそれらを「謎筋A」「謎筋B」と命名するくだりです。
人の身体でもキリンの身体でも同じで、解剖書に描いてあるような美しく腑分けされはっきりした色で見分けられて整った形の軟組織なんて、自分でやる時には「見つけられない」と思っていて間違いありません。あれは解剖のプロが解剖すればこそみられる光景だし、解剖書に書いてあることは先人たちの偉業の恩恵です。
恩恵を受け取ってわかった気になるのは簡単ですが、わかった気でものごとに当たる人は、そもそも研究者に向いていません。
わかりきっていると思われてきたことの中に、まだ誰も気がついていない事実が眠っているかもしれない。もどかしくても、自分の目で見て頭で考えて再検討することが大事なんですよね。
郡司さんもとりあえず謎筋A、B…と名付けておいて、起始停止をコツコツと確認し、動かしてみて、解剖ノートに記録してゆく。答え合わせは後でする。時間がかかるしもどかしい作業でしょうが、こうすることでしか得られない理解があるわけです。一足飛びに華麗にゆけない。そんな学びの過程がいくつも待ち受けているのが、研究です。
幾百もの”凡人”研究者が築く礎がある
自分は研究者として凡人だ、自分のやっている研究は地味でパッとしない。こんな劣等感を抱きがちだけれども、そういう地味な研究の集合体こそ知の体系を形作ってゆくのです。
ひとりが生涯に関われる業績量などたかがしれていますが、幾百、幾千もの研究者の行った解剖、実験、発表した論文等のデータは、その分野の研究の地層を固める土壌となってゆきます。『キリン解剖記』の各章にちらりちらりと出てくる郡司さんの先輩の院生、博物館職員、動物園の獣医師等の存在は、この真理を改めて確信させてくれます。
自分は研究職に残り続けることはできなかったけど、目録を作れた。翻刻ができた。論文を3つ発表した。いつか誰かがこれを役立ててくれればそれで満足だ。ーそういう思いで研究の場を去ってゆく人たちが、毎年、山ほどいます。そんな人たちの業績は、もしかしたら誰かの論文の参考文献の1行で終わりになってしまうかもしれませんが、でも、「ない」より「ある」ことが大事なんです。
大学や基礎研究の場が、効率主義や成果主義の波に侵食されてしまった日本ですが、郡司さんの著書が脚光を浴び多くの人の目に触れることで、「研究ってそういうことなんだね」と理解してくださる人が増えるのを祈っています。