2本めのinnochi glassをかけ始めて1週間以上経ったので、ここら辺でどんな世界を体験しているかを記録しておこうと思う。
今回のレンズは左右とも色はプラチナム。パッと見た感じは無色に見える。
わたしが体験しているプラチナムの世界は、「冴え冴えとしたクリーンで静かな世界で過不足なくひとり」。寂しくもない代わりに嬉しくもない。
これを否定的に捉えられると困る。不満や辛さはない。現在の私に必要な、もう一度自分に立ち返る作業に最適なレンズだ。
innochi glassで不快なことに対する許容範囲が狭まる
このメガネを常用し始めて、ちょっと嫌だなぁと感じる他人の言動について許容範囲が狭まったのを実感している。
これは自他の境界線:バウンダリーの意識が明確化したからでもあるし(目的どおり!)自らの感覚と行動の乖離に気がつけるようになってきたということでもある。
たとえば、愚痴に対する忍耐力が低くなった。
これまでのわたしは、愚痴や泣き言はちゃんと聴いて慰めたり励ましたりしなくてはならないと思っていた。でも、実際は聴かされると苦しい。わたしはそういう話が大好物なわけではない。
本来の感覚的な要求:愚痴や泣き言からは距離を置きたい
後天的に身につけた態度:愚痴や泣き言でもちゃんと聴いて慰めたり共感を示す
本来の要求と後天的に身につけた行動との乖離が大きいほどに、自分という限りあるリソースを無駄遣いしてきたと感じる。
そして必然的にこれまでの私とはふるまいが変わってくる。
意外なことに、これがまだ居心地がいい感じがしない。後天的に身につけた「かくあるべき」というコードからの逸脱だから、ためらいがあったり、反応が遅れたり、従来の態度を示してしまってからモヤモヤしたりが頻発している。
innochi glassで本音からの言葉がわかるようになる
居心地悪いことばかりではない。バウンダリーが明確になる=自他の境界線をハッキリ認識するようになると、人からもらう感謝の言葉や厚意の有り難さを、これまでよりも強く感じるようになる。
社会的な礼儀として言っている言葉として受け流していいものと、そうではなく、字義通り「心がこもっている」言葉として私の心に直接響いてくるものとの違いがわかるようになったのも、興味深い。
innochi glassで直観が冴える
もうひとつの顕著な傾向は言語化・文章化活動の低下だ。
これはブログやSNSでの発信頻度が下がることでもあるので、個人事業主としては困る事態ではあるのだけれど、直観が冴えてくると「こうだからこう」という感覚が増え、「これってなんだろ?あ、こういうことだ。それはかくかくしかじかの理由でこうなっているんだよね〜」という自己説明や落とし込みの作業が不要になる。自身を含め、人に共感してもらうことに対する欲求も減り、自己完結の時間が増えたせいだろうと思う。
これが今のところわたしが感じている、2本めのinnochi glassの影響だ。対外的な愛想は悪くなったろうなと思う。しかし実際に会う人からは「脱力していい感じになった」と言われることが増えた。くっきり峻別する境界線の感覚が負担に感じられるような場面では、1本めのマゼンタのメガネをかけるようにしている。
愛想と人当たりが良くて常識的で受容的という態度を、かなり頑張ってとってきていたのだと気がつけたのは、大きな収穫だった。そういう態度を女性に期待する社会の規範や身近な人の意識を感じ取り、期待される役割を演じることで乗り切ってきたのだろう。
もう好きに生きたい!今の気持ちはこれに尽きる。
好きなように生きたい気持ちはあれど、これまで自己主張してこなかったツケで何がしたいのかもわからなくなっている人は、innochi glassをかけて、身体に決めてもらうのがいいかもしれない。