日々のこと

不快なことに遭遇した時にはメタ認知を育てる

お箸の持ち方に関する話題について、FBフレンズやTwitterのフォロワーさんたちの意見を興味深くみておりました。発端となったツイートはこちらです。

 

わたし自身は「お嫁にいけんよ」といった小学校教師の在り方には、同意できません。子どもを脅すような表現で「正しいほうへと導ける」と思っている思考が、小学校の教諭としてなってないぞと思うからです。

それはそれとして、正しいお箸の持ち方ができない=みっともない、だらしない、お里が知れる(基本的なしつけすらできないガラ悪い家の子)とする見方は確かにこの社会にあります。

マナーは自分のためにあるのではなく、社会生活を営む上での基礎的な礼儀なのだという意見の方もいて、確かにそういう側面はあると思ったり。表面上のマナーが完璧でもDVやモラハラなどやらかす奴もいるぜ?だからそんなことで人格までジャッジすんなという意見もあり、そらそうだわと思ったり。

「手指は自分の意図した通りに動かせる」という前提を、疑っていない人が多いことには驚きました。手指の神経が十分に機能しない人や全然機能しない人はこの世にごまんといます。そういう人が「正しく」箸が持てない場合も、正しい箸の持ち方を推奨したい人は、「みっともない」と感じてしまうものなのかしら?きっとあまりいい気分はしないのでしょう。

正しい箸の持ち方に拘泥する人でも、「直そうと努力しても無理だったんなら仕方がない」という視点ぐらい持っているよ?と言うでしょう。

しかし、努力したかどうか、その努力がいかほどのものだったか、箸の取り扱いにどれぐらいの困難を感じているかなんて、他人が即座に判るものではないですよね。こういう事情は外見からパッとみてわかる場合(半身麻痺とか)もあれば、そうではない場合もあります。むしろみてわからない方が多いかもしれません。

だから箸の持ち方のみを見て、育った家庭や人格や性質を批判的に見るのは適切ではないとわたしは思っております。箸を正しく持つことと人として真っ当であるかどうかは、別次元の問題ですしね。

日本で正しいとされている箸の持ち方をしていないアジア系の人と、肩が上がるほど力を入れて箸を短く持っているコーカソイドの人と。日本から一歩出てみれば、たとえ箸文化圏であっても、日本での主流・正統だけがスタンダートではないとわかるもんです。

 

かといって「箸の持ち方なんてクッソくだらない」と口汚く貶めることもしたくない。だから「お箸も正しく持てないなんて」とちょっと抗議したくなる気持ちも解ります。わかりたくないけどもわかっちゃう。自分もそっち側に近いところにいる自覚はあります。

なぜ斯くも人はこの話題で「ひとこと言いたい」となるのか。
そこにわたしの興味はあります。

箸という、1日に何度も使う食事の道具の使い方についてのしつけですから、幼い頃から繰り返し植えつけられた価値観や世界観と密接に関わっているから、ひとこと言いたくなっちゃうのでしょう。

食べるという行為は生存に関わることだし、乳幼児は親に食事を作ってもらい食べさせてもらう必要があります。親や大人に介助してもらいながら、食事という”生きるための基礎トレーニング”を積むわけです。
そこで刷り込まれた「こうしなさい」「こうすべき」という価値観は、それは強固なものでしょう。その人が世界をどう見ているのかの根本を成している可能性すらあります。

だから、他人が別なルールや別な価値観を見せると「えッ!?そんなことありえない!」とカッカしちゃうのかもしれません。

でもね、それはお互い様です。

おそらく、昔なら社会属性が違う人たち=基本の価値観が大きく異なる人たちと接することはあまりなかったでしょう。SNS上でいろんな社会属性の人たちと、共通の関心事項だけを接点として交わるようになったがために、受け入れがたいものを目にすることも増えただけではないでしょうか。価値観の棍棒でお互いに殴りあうようなことは、不毛だなと思います。


こういう時には、自分の底に眠っている埋蔵価値観とでもいうようなものを見てみると、ちょっと面白いんですよね。

不快な出来事やザワザワする出来事は、メタ認知を育てるいい機会です。メタ認知は、自分を知ることに繋がります。彼我の価値観の懸隔を、一歩引いた視点から眺めて、カッカせずに「ふ〜ん」と眺めること。この作業を経ていると、自分にとって重要ではない問題については、「どっちでもいい」という境地にすぐに入れます。 

重要だな感じる事柄については、メタ認知を持ってみたところでザワザワしていたり、色々主張したたりしたくなるものです。そういう時には更に深く掘ってみると、自分をより理解できるようになります。

不快な出来事から目をそらし続けるばかりが、ストレス対処法ではないのですよね。