好きと嫌いは両方大事ということを以前も書きましたが、ますますその思いを強めています。特に最近おもしろい(興味深いという意味で)のは、不快だったりイラっとしたり激しい反感を抱いたりした時に、自分のその感情がなにに基づいているのかをみること。底に横たわる偏見や思い込みに気がつくこともあれば、大事にしている価値観の核に気づくこともあります。
でも、こういうことをやっていると話すと、わりとよく驚かれます。「えっ?!(とまどい)」みたいな反応も貰います。とまどう人は不快・反感・苛立ち・嫌悪・怒りといった感情を、「感じたらいけないし表現するのがはばかられる感情」と思っているようです。感情をネガティブに捉える必要はないのに、「イヤだ」「腹が立つ」という感情を持つのもはばかられるように感じるのはなぜでしょう?
本来無関係なことを感情と短絡させている
なにかを嫌いだと感じるのは、それを好きな人を否定することであると短絡させてしまっているのかもしれません。
「わたしはこれが苦手」と感じることと、他人の趣味を否定することとはイコールではありません。わたしはパクチーは苦手ですが、パクチー好きの人を「人にあらず」と思ったり味覚をけなしたりはしません。それはそもそもしてはならないことです。罪を憎んで人を憎まずというと大げさですけど、それにも似ています。(性癖となるとちょっと話は変わりますね、うん。それは認める。でも話がややこしくなるのでここでは性癖は取り扱いません)
感情に善悪をつけて抑圧している
嫌いだという感情そのものを悪者扱いし、イヤだと感じるのは心が狭い、すべてを肯定的に受け入れなくてはいけないと考えている場合もあります。
そんな風にがんばるのは無駄です。すぐにやめましょう。タバコの臭いが嫌いだ!と感じること自体にいいも悪いもありません。感覚そのものはうち消せませんし、うち消す必要もないのです。「そうか。わたしはタバコの臭いが苦手なのだな」と認識するだけでよし。
表現は選べる
どちらのケースでも、嫌いという感情を他人に向けて表現することは含んでいません。他人に表明せねばならないときには、相手とのこれまでの関係がどうだったか(文脈も含む)、ここからの関係をどうしたいのか(維持したい?破壊したい?よりよくしたい?)によって、表現を選べばいいのです。学生時代からの気の置けない友達とのランチで「牡蠣フライ苦手!」と言える人でも、新しい職場のまだ親しくもない同僚とのランチで同じセリフは使いません。表明すること自体を禁じなくちゃいけない!というのは窮屈な関係ですが、表現を選びつつ自分の趣味を小出しにする関係もありなのです。
嫌なことがあったときほどチャンス
食べものやにおいといった、心のうちに秘めておいてもさほどストレスがたまらない個人的嗜好の例を書きましたが、実は、人間関係で感じる不快感も同じレベルで考えていいんです。
たとえば、約束を守らない人に対してわたしは強い憤りを覚えますが、それは「他人と交わした約束は守らなくてはいけない」「相手が約束を守らないのはわたしを軽んじている証拠」と考えているからです。ここで「いやぁ、参ったわ〜ないわ〜w」と、自分の感じた怒りを否定し、謎の虚勢をはったところで「我慢させられた」という被害妄想にとりつかれるばかりです。憤りは憤りとして感じることを自分に許し、怒っているんだよなぁわたしと認めたうえで、これも自分の価値観を深く知るきっかけだととらえると、憤りすらチャンスと感じられるようになってきます。
タイトルには便宜的に”ネガティブな感情”と書きましたが、本来、感情にネガティブもポジティブもなく、自分を構成しているピースの1つ。どれひとつかけても今の自分は成り立たない。そしてこのピースは消えたり増えたり形を変えたりもします。感情に自覚的になってみると、感情に振り回されて疲れることが減ります。お試しください。
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